塾屋でありながら、塾・予備校の教育を否定しています

同じ学校に通って同じ授業を受けていても、これまた当然、同じ塾に通って同じ授業を受けても、成績が上がる子と上がらない子がいます。

「一体何が違うのだ?」

というのは永遠のテーマですが、最近少しずつ私の中では答えが見えてきました。
それは、「試験対策」が「勉強」だと勘違いしている子が成績を伸ばせないのだということです。「試験対策」は、昭和50年代に大ブームとなった塾・予備校が現代まで継続して徹底的にブラッシュアップしてきたことです。

試験問題を徹底的に分析し、「出題される確率が高い分野を徹底して勉強しておく」という学習手法は、結局のところ「試験を突破するための勉強」でしかなく、裏返せば「試験に出ないところは無視する」という結果に陥ります。しかし、その背景や基礎知識は試験に出ないまでも、知っていなければ、活用できなければ使い物にならないところ。それを「試験に出ないから」という理由だけでカットするというのは、総体的には子どもたちの学力や知的レベルを低下させることになります。

底辺校(最近は教育困難校と言うらしいですね)の授業では、先生が面白く、興味深い授業をしようとしても全く生徒は乗ってきませんが、「試験に出るぞ」と言って授業するとマジメに聞くのだとか。結局この部分での「教育の失敗」がこういうところに表出してしまうのでしょうね。試験対策が勉強の全てだと思っているのは不幸でしかありません。

そもそも、試験に出そうな知識だけを断片的に学習することになれば、日常学習の意義を感じる子どもも減るでしょうし、学習内容に興味を持つことも減ります。つまり学習の目的がその知識や対象に対する興味ではなく、何か試験で試される場面において、合格点を取ることに変わってしまっているのです。アカデミックな部分に全く触れない生徒が出てくるのも当然。

でも、これが塾・予備校のテクニックでありノウハウだったはずです。私が子どもの頃や、塾の教壇に立ち始めた1990年代あたりは、基礎学習が伴っていなくても、ウチの塾でテクニックを学べば憧れの高校・大学も夢じゃないですよ?という触れ込みは世にあふれていました。

当時の学校の先生は「こんなものは教育ではない」という人が多かったものですが、昨今はその塾・予備校を学校内に招き入れ、進学指導をする学校も増えてきました。

定期テスト対策でもそうですが、試験問題を何年分も回収し、再配布することで試験対策をして点数をクリアさせたり入試に合格させるということを何十年と繰り返していけば、その地域の教育レベルが下がってしまうことは当たり前の話。これが大事だと言われ続けてくれば、それこそが「勉強」であり、「学び」だと思いこんでしまう子が多いのも無理はありません。その点だけで言えば、そういう単純な試験対策を続けてきた塾・予備校の影響は反省すべき点だと思います。

最近では、学校の先生自体が、「過去問を分析し、繰り返し解くことで、「傾向と対策」を十分準備して大学に合格するために勉強しろ」と指導をするようになりました。これは本来予備校が言ってきたことであって、試験攻略のためのテクニック習得を学校が奨励するようでは困ります。

試験に出るところばかり勉強してはいけないという点で言えば、国語で、「動詞」「名詞」などの自立語ばかりが問われ、付属語である助詞・助動詞が問われることは少ないというのを思い浮かべていただければいいかと思います。試験に出るからといって、自立語だけを学んで、自立語だけで話せば、結果、変な「単語だけでしゃべる会話」になってしまいます。それぞれの関係性を示し、文脈や前後関係を作るのが付属語です。ですから、問われないからと言って知らなくてもいいという話ではありません。

私は長年高校生に古文を教えてきましたが、8割がたの生徒は古文が苦手だといいます。古文を学ぶ意味も分からないと言います。だって、役に立たない勉強だと(笑)

確かに実践で役立つことはないので「古作文」はありません。
ならば古文を読み解くことに一体何の意味があるのかと問われることも多くありました。
古文を読んでいくと、実は様々なことを考えさせられるはずです。
1200年前の男女も同じ悩みを抱えていたのだなぁ、とか、今より美しい人間関係が存在していたのだとか、古文読解の本質は人間ドラマの観察にあるのです。社会学的見地からも古典を学ぶべきだと私は思っています。だから古文が必要。古文から学ぶことも多いと思うのです。

ところが、「古文は、本文を全部読まなくていい!」などと教える有名予備校講師がいます。受験生なら知っている人も多い有名な先生。聞けば、たしかに読んでいる暇もない、意味がわからなくても解ければいいという究極的なテクニック。このパターンならココを見ろとか、こう聞かれたらコレを探せとか、分析がモノを言う完璧なまでのパターン化学習。

裏返せば、そこにアカデミックな部分、古典の中身や学ぶ意義について触れる部分は皆無で、ただただ、センター試験や一般入試で得点し、合格をするための勉強。これを繰り返して、古典が得意になったり、好きになったりする生徒が出るわけがありません。嫌いでいいから点を取れという勉強ですから。確かに大学は合格するでしょう。しかし、大学に行って何をどう勉強し、生きる上で何を学ぼうと思うかには至らない気がします。そして、結果的にこういう「入試分析」の絶対化と、「試験問題の再配布」を繰り返したからこそ、試験の点数ではない「子どもたちの学力の低下」「知的好奇心の低下」が起きてしまったと思っています。

学校が「塾」「予備校」と同じことを言い出したら本末転倒。
そしてそれに疑問を持っている賢明な保護者も増えてきていると思います。
都立高校は今頃になって塾・予備校と提携を始め、放課後に大手学習塾の自習室システムを導入し始めることになっています。学校が予備校化するのであれば、塾は学校化が進みます。本当の教育が塾にあるとか言い出す可能性もなくはないでしょう(私自身は「塾に本当の教育なんてあるわけないだろ!」と思っている派ですが!)。

学校は頑なに「教育のプロ」であって欲しいのですが、どうなんでしょうかね。 

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