生きる価値

高校の現代文を教えていた頃は、こういう哲学的な文章が出てくると、いろいろな話をすることが多くありました。子どもたちとこんなテーマで話を進めていくことは面白かったし、いろいろ考えてくれる子たちも多くて、知的なやりとりが出来ることが多々ありました。生徒たちもそれに興味を示せるような優秀な子が多くいました。

今の子たちは、世の中全体として、こういう知的な話をする余裕がないように思いますし、もうちょっと即物的・現実的になってきているように感じます。つまり、そんなのはいいから、どうしたら最少の努力でいい大学に入れますか?みたいなことです。

それに伴って、残念ながら子どもたち全体の学力も地盤沈下しているように思います。実際、文科省の英語改革で、英語のカリキュラムが大幅に変わってことによって、どれほど英語が出来るようになっているかといえば、真逆。とにかく英語が出来ない、英語が苦手という子が非常に多いわけです。得意な子は勝手にどんどん勉強して先取りしているので、これもまた極端ではありますが。ただ、そういう子たちも、書きや正確な英語表現は苦手だったりもします。

さて。
先日、これは中学受験生の国語でお話ししたこと。
文章の題材から、生きるということの意味の話になりました。

そもそも、生きること自体にはあまり意味がないとお話ししました。
そう。生命を長らえるだけでは、そこに意味はあまり見出せません。なぜかといえば、人は必ず死んでしまうからです。どんなに学んでも、どんなに立派になっても、どんなにお金持ちになっても、死んでしまえば0になります。

「動物や虫って、何で生きてるんだろうね?」
と問うと、そんなこと考えたことはなかったという表情。ですよね?

でも、ただひたすら餌を食い、ひたすら子孫を残すことが目的の動物や虫の「人生」って何なんだろうねぇ?と思うと、本当に迷宮に迷い込みます。

そんな自分の生きる意味を、「内省」だけに求めていくと、結果、生きること自体には意味が見出せないので、最終結論は「死ぬ」という答えになると聞いたことがります。人は自分のことを突き詰めすぎると自殺に行き至るのだということでした。

だからこそ、「人生の意味」は外部にある、というのがこの文章の言いたいことでした。
ちっぽけで無価値だと思っていた自分でも、「求めてくれる人がいる」「必要としてもらえる」「感謝された」そういう外的要因があってこそ、人は「もっと生きてみよう」と思うのであって、人の価値は外的要因によって与えられるのだという話をしたのです。

小学生に(笑)

納得してました。あたまいいなぁ、おい!(笑)

論理を追ったり、「つまり、こういうことね」と解釈を加えていくという作業は、なかなか一人では出来ません。だから指導者が必要なのですが、このご時世、意外にも国語の先生でもこういう話の運び方や、すこし人生論にも似た思考を追う作業が出来ない場合があります。単純に指導要領を丸写しみたいな授業をしている先生も、ノートを見る限りいます。

子どもたちは、学年問わず、こういう話をすると、実は非常に食い付きます。
滅多に言われない話だというのもあるのでしょうが、実は思春期の子たちはこういう話が大好きです。人生論などは聴きたい部類の話。迷いの時期でもありますからね。

算数もやりたい。
でも国語も社会もやりたい。
中学生も教えたいし、高校生も教えたい。
でも体は一つ。
そして、膨大な塾長業務。本当に経営業務は嫌です。お金の計算したくありません。人事評価したくありません。書類整備、マニュアル整備、超苦手です。嫌な仕事は全部「塾長業務」です。授業だけやってたら楽しいのになぁ…と思います。

が、しょうがないですよね。自分の塾ですから(笑)

でも時々、普段見ていない子たちの授業に出ること、現場に出ることは忘れないようにしたいと思います。現在塾長は週2で授業。6コマは持ってます!

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