春なのに

中学2年生の夏休み。

私は2週間のアメリカ旅行に行かせてもらいました。
当時はまだ1$が330円とかいう時代。今なら30万程度の旅行も、当時は100万円かかった頃です。外務省勤めだった叔父がWashingtonDCに赴任していて、そこを訪ねるという旅程。途中、Los Angelesで2泊し、Knott’s Berry FarmとDisney Landへ。

WashingtonDCでは叔父の家に4泊くらいしたのだっけ? Philadelphiaまで車で遊びに連れて行ってもらったなぁ…

WashingtonDC以降は、NYでやはり2泊。今はなきWTCへ。私がアメリカのスゴさを感じた場所でした。ここでは、現地のお宅を訪問。今考えるとすごい豪邸だった、ピーパスさん。

そしてSan Francisco。何よりケーブルカーに乗りたかったので、嬉しかったなぁ。金門橋も見て、チャイナタウンでライスを食べてようやく腹が収まりました(笑)

最後はHawaii。Waikiki。今考えると、泊まったホテルがMoana surfriderだったから、結構な感じでした。紅花で鉄板焼き食ったなぁ…

アメリカのデカさを知り、まだ日本開業前のディズニーで夢中になって遊んだりもしましたし、どこまでも車で延々と行くスゴさを知りましたし、覚えたての英語でハンバーガーを買いに行かされもしました。あの頃はまだNYの地下鉄は危険で乗れなかったけど、後年行った時は平気だった記憶。WTCは最も感動した場所で、後年また登りました。なくなったなんてね…今でも信じがたいですね。

ハンバーガー食に疲れ、洋食に疲れ、時差にもやられていた中2の胃袋を正常に戻したのは、SFのチャイナタウンの中華でした。米をたらふく食って、「ご飯が縦に詰まった」という名言を吐いたそうですよ、私。ケーブルカーは修復直前で、少し時期がズレていたら乗れなかったかも。

この旅行、実は、家族で行ったのではありません。
私の父はびっくりするほどの出不精。英語の教師としては実力はかなりあったと思いますが、残念ながら受験英語の先生で、実践はからっきしだったと思います。ゆえに息子を自ら海外に連れて行くなどということはありませんでした。

私は、WashingtonDCにいた叔父ではない、別の叔父一家、つまり従兄妹の一家に連れて行ってもらったのです。3つ下の従兄妹の女の子と、元々仲が良かったので、実兄みたいな顔して家族に紛れ込んで連れて行ってもらいました。

叔父は、某外資系トレーラー会社の社長でした。年の半分をアメリカで過ごすほどの激務で、日本航空の利用頻度が日本で3本指に入るような人でした。ですから、空港はほとんどラウンジ利用でした。すげー(笑)

叔父は、そんな立場にもかかわらず、飄々とした感じで、冗談ばかり言っている、それでいていろんなことを知っていて、カッコいい人でした。今考えると、NYでお宅を訪ねた方も、ゲートから家まで車で何分もかかり、裏の湖は自分の家だと言っていたので、相当な富裕層だったのでしょうね。アメリカ定番の「庭でバーベキュー」。私は電車好きと言ったらAmtrakの鉄道模型をもらって感激した記憶。おそらく叔父の取引先の偉い方だったんでしょう。

叔父はいっつも笑っていました。
笑顔しか思い出せないし、実父には無い、世界の広さを感じていました。ちょっと憧れもあったかも知れません。まぁ、相当な金をかけてアメリカに行かせてくれた実父にも感謝せねばならないのですが、その頃はね、そんなことも考えないガキンチョでしたから…

帰国後、英語の勉強を頑張ったのは言うまでもなく、進学先に明治学院高校を選択したのも、海外の香りがするところに憧れたのかもしれません。まぁ、親父の出身校であったこともあるのですが…

叔父は現役時代は激務でしたが、定年後は地元で畑づくりに夢中になり、食育に注力して、野菜のおじさんとして地元の小学校などに関わっていました。

その後は、私も自分のことがいろいろ忙しくて、叔父にはなかなか会えていませんでした。従兄弟の結婚パーティの時の写真が最後だったかもしれません。母の実家で顔を合わせたことはありましたが、もうそれも記憶が定かではありません…

Another PAPA。

そう言っていた時期もあった叔父でした。
その叔父、84歳で先日旅立ちました。
従兄妹からその連絡が来て、一人、4F塾長室で涙が止まらず、本当に困りました。久々に、泣けて泣けて。誰もいない塾長室で、しばし仕事になりませんでした。

まさかまさか、93歳の実父より先に行くなんて予想もしていなかったので。
私が大腸憩室出血で入院していたのと全く同時期に、同じ場所の病気で運び込まれていたそうです。そこから1ヶ月ぐらい頑張ったんですね… これは一体、何を示しているのでしょう。叔父が私の分まで背負い込んでくれたのではないか、だから私が良性の疾患で済んだのではないか… そんなことすら考えました。

ということで、春期講習初日、しかも酒井が退社した翌日ではありましたが、葬儀があったので講師たちに教室を任せて、見送りに行って来ました。こんな形で仲の良い従兄弟が大集合。私は叔父の姿に何も言えず、言葉もかけられず、ただただ泣いて来ました。感謝だけはしっかり心の中で。

奇しくも、私が「ずっと現場を大事にしよう」と思ったきっかけ、密かに憧れていた星槎国際学園の宮澤理事長がお亡くなりになりました。

私が30代の頃。鴨居キャンパスや湘南キャンパスの見学をさせていただいた時に、こんな形で「もう一つの学校」が作れるのかと、感動しました。

あんなに大きな学校になったのに、宮澤先生が教室に行くと、生徒たちはニコニコ手を振って、声をかけて来る… 先生の部屋にも生徒たちがニコニコして来る… 自分の理想的な先生像が出来た瞬間でした。そういえば一瞬、伊豆高原の保養所にもお邪魔したことがあるな…

当然、私にとっては雲上の人ですから、その昔お会いして、勝手に私が憧れていただけ。先生は私のことなどご記憶にもないでしょう。でも、私は、実はすごく影響を受けた方の一人。大事な人を同時に2人失った悲しい春です。「春なのに、お別れですか…」です。

時代は進み、時は流れ、何事にも終わりが来る。
やっぱり、この歳になると、いろいろな「終わり」を意識しながら今を生きるようになりますね。

若い頃は時間の無駄使いが出来ました。今は、ウカウカしていると終わりが迫って来ますから、常に焦って生きているように思います。でも、新しい出会いもあって、新入社員も入って来ます。春は出会いの季節でもあります。そう考えて頑張らないと。

お二人とも。どうぞ安らかに。

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