若者の漠然たる厭世

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鏡子の家 (新潮文庫/¥820)

世の中に迎合している若者ほどつまらないものは無いと思います。それは、旧態依然の社会システムであったり、変革を嫌う年配者の体質というものに、若者が融合するわけがないからです。若者は古いものを嫌い、自分たちの世代の価値観こそが最上のものであるかのようにふるまいたくなるものですし、必ず古い体質には反発するものなのだと思います。「古いよ」という発言が出来るのは若者の特権で、これを年配者が口にすると、妙な自虐であったり、同年輩を揶揄する言い方であったりするので、妙に浮足立った感覚があるのです。

この「鏡子の家」に登場する若者たちは、皆三島由紀夫の投影であると言われています。鏡子という女性の家に集まる若者は、ボクサー、俳優、画家、世界の破滅を信じるサラリーマン。それは三島の筋肉マニアぶりを投影するかのようなボディビル。三島の役者への思い。そして三島のボクシング好き。そして最後にはボクシングの夢がついえた俊吉が「尽忠会」という軍国主義活動に傾倒する場面に至ります。ああ、全て三島由紀夫自身ではないか… そう思わざるを得ないのです。

この作品をプロ・アマ問わず様々な方が批評しています。名作だという方もいれば、失敗作だと評する人もいます。しかし、私は何より興味深かったのは、登場人物、つまり三島自身はあれだけ精力的に活動し、時代を疾走したにもかかわらず、世の中を「退屈である」ととらえていたことです。青年は世の中を「退屈だ」と思い、それに対するアンチテーゼを繰り返していきます。常人から見ればそれは「頽廃的」=デカダンスとも思える行動ばかりで、決して万人に受け入れられるようなことではありません。しかし、いつの世も、「大人には分かるまい」という若者がいて、大人は「最近の若い者は」という科白を吐き続ける、これが社会構造の「お約束」になっているのかもしれません。少なくとも三島の時代から世の中は何も変わっていないわけです。

作中に、俳優志望を志していた収の科白に、
「どんなに苦労を重ねても、浅い夢しかみない人は浅い生しか生きることが出来ない」
というものがあります。これも三島が訴えたかった人生観だったのでしょう。一見頽廃的で、怠惰で、自堕落な生活を志向しているように見えても、実は完全燃焼し、もっと熱く、本気で生きること、それが三島の人生観であったのではないかと思うことがあります。

それがあの市ヶ谷駐屯地での最期につながり、あの檄文、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」という言葉につながるのではないかと思うことがあるのです。熱かったじゃないかと…

しかし、この物語でもう一つ、皆が指摘しない部分があります。
サロンの中心であった鏡子は、最後にこう吐露し、この頽廃的な「鏡子の家」でのパーティをやめていきます。

「…人生という邪教、それは飛び切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようとしないで生きること、現在という首なしの馬にまたがって走ること、……そんなことは怖ろしいことのように思えたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。単調さが怖かったり、退屈さが怖かったりしたのも病気だったのね。くりかえし、単調、退屈、……そういうものはどんな冒険よりも、永い時間酔わせてくれるお酒だわ。もう目を覚まさなければいいんです。出来るだけ永く酔えることが第一。そうすればお酒の銘柄なんぞに文句を言うことがあって?」

今までの付き合いを断ち、夫と娘との、普通の生活を受け入れる覚悟をするわけです。これが「大人になる」ことであり、成長なのかもしれません。確かに、単調な生活は若者にとってゾッとするほど恐ろしいものでしょう。退屈な人生を一体何年送るのだろうと気が遠くなります。しかし、小さな単調な積み重ねの偉大さは、ある程度歳を重ねていくと非常に実感するところ。つまり、若者が「大人」を受け入れ、リスペクト出来るようになることが成長につながるのかもしれません。

私も、20代は生意気にも平凡や単調を嫌いました。毎日がエキサイティングで、毎日が変化に富む生活を志向していました。だからこそマスコミや芸能やらを志したのです。同じ職場に毎日通い、9to5で与えられた仕事をこなし、アフター5でささやかな愉しみを見つけるなどというチンケな人生はまっぴらごめんだと思っていました。

ですから、店員などという仕事は自分のやるべき仕事ではないと思っていました。公務員などあり得ない世界で、職人も考えられません。会社組織に属することで、人格の無い「歯車」の一部になどなれるわけがないと、また想像しただけで吐き気がすると公言してきました。

しかし、鏡子はここに気付いたように思います。いや、気付いたことで、もちろん破天荒な青年たちのアナーキズムは最終的には敗北することになります。やはり、家庭を守り、社会的地位を守り、普通の大人になっていく、そんな鏡子に今は共感すら出来るのは、私がそういう年齢になって来たからなのかもしれません。そうです。ある種の諦めなのかもしれませんし、ある種の成長なのかもしれません。しかし、今まで見えなかった小さな「偉大さ」に気付けば気付くほど、人は大人になっていきます。

さて、若者たちはこの本を読んでどう感じるでしょうか。実は副都知事・猪瀬直樹氏が最近読んだと言われていたのが気になって読んだ作品。勝鬨橋や埋立地が出てくる最初の場面が非常に印象的だったということで、手にした作品。相変わらずの三島節で、観念的な形容が非常に多く、読みやすい、分かりやすいとは決して言えない作品ですが、現代の青年が読み、何かを感じるには十分な作品でしょう。ただし、私くらいの年齢の方には、実に「青臭い」作品であることも事実です。

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